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これで変に検索に引っかかったりもしないでしょ。
更新日時も開設前はるか昔にしておきました。
俺のブログを知ってる上で、全部読んでやろう!っていう根性ある変な人しか見ない、はず。
はじめに
誰かに読んで欲しい、って思いは少ないですね。
俺が変死した時、何も言えず憎しみまくり怨念になるくらいだったら、ブログ記事に色々書いといてさっさと天国に行こう、という覚悟?です。
もしこれを見つけたトレジャーハンターみたいな変態が居たら、ちょっと面白い話を見た、くらいに思ってもらえたら嬉しいかな。
生い立ち
名前はM.N.です。
気付いた時から母子家庭で、後で知った戸籍謄本でも確か1年経たず母は離婚してたのかな。
母
母親も精神病というか、ヒステリックな人で(多分)メンタルヘルスに通う人でした。
体も弱く、すぐ吐き気がしたり、骨の古傷が傷んで歩くのも苦しそうになったりも。
それでも1人でヘルパー業をして、ちょっと貧乏な生活でしたけど、飢えたりはしないし、進研ゼミやらせてくれたし、図書館で死ぬほど本を借りる読書家で読み聞かせしてくれました。
礼儀に関しても結構厳しく、金銭感覚もめちゃくちゃ厳しく育ててもらった……と思います。ゲームも禁止。
そんな母は、俺が小4?小5?の時に、脳卒中でぶっ倒れました。
母もメンタルおかしいし、自殺しようか?なんて提案されちゃうくらいヤバめだったり(えぇ……嫌だよ……って答えた気がする)なんか良くない状況でしたね。
俺自身も夜1人で歩いててトラックに轢かれかけた思い出があります。
怒鳴られて、『なんかここで死んだ方がいいんじゃない……?』みたいに思いながら運転手の顔を見たら、なんかドン引きした顔されて黙って発車していったり。
割と闇というか、鬱というか。
小学校低学年で色々と思いつめて、この時期が人生で一番キツかったかもしれないですね。
なので、脳卒中でぶっ倒れてもらって、祖父母の家に引き取られたのは救われた部分もありました。
祖父母
小さい時からずっと大好きでした。
色んなメシ食わせてくれるし、旅行も……連れてってもらったかな?
幼少期の幸せな思い出あるはずなんですけど、全然思い出せないんですよね……。
アルバム見て「あ!牧場行った!」とか「セミの幼虫観察した!」とかやっと思い出せるくらい。
絶対にアルバム残さなきゃいかんですね。
何を食べてもいい、ゲームしてもいい、神みたいな環境でした。
ただ「寮生活してみたい」と自分でも言ったか言ってないか覚えてない発言を真に受けたみたいで、小6になった瞬間に受験勉強が始まりました。
この頃はクラストップに頭が良かったし、それほど抵抗も無かったですかね。
今考えても中学受験勉強は社会人常識レベルの知識多めでオススメな気がします。
そんなこんなで、毎日のように車で送り迎えしてもらったりして、1年間しっかり勉強しました。
合格したのは『桐蔭学園中等教育学校』です。まぁまぁ良い所ですね。
卒業してから死ぬほど学費が高いお坊ちゃま学校だと知りましたよ……😂
中学時代
それほど望んでた訳でもないけど、寮生活が始まりました。
時代としては、オタク迫害がハルヒ効果とかで薄れつつあるけど、それでもやっぱ『オタクきもい』の残る時代ですね。
男子校だったからイジメらしいイジメってほどはないけど、寮の体育会系先輩には良くいじられました。
それでも、モンハンを死ぬほどやったり、漫画を貸し借りしたり、大富豪で金を巻き上げられたり。
先輩との付き合いとかは今にも生かされてるほど、色んな人生体験になったと思います。
毎朝ちゃんと時間に起きなきゃ高校生の先輩を待たせてしまう、怒られてしまうっていう恐怖による規律もありました。
まだケータイ、ゲームが禁止だったので隠れてやりまくってましたし、ゲーム機すぐ野球部柔道部のカス先輩とかが盗んでましたけど、良い所でした。
後から思うと、祖父母の負担にならなくてよかったかなと。
この時期、寮から送り迎えをジジが車でしてくれて、その途中でママ(って呼んでた状態で植物人間になられちゃったから呼び方を変えられず)の見舞いに行ったり。
でもそれがキツいんですよね。
実の母親がただ寝たきりモード。これはつらいよ。
後から見た写真では、車椅子に乗せられてサンタ帽を被されて、赤ちゃんに接するかのようにあやされてたのを見ました。
俺この記憶が人生で1番キツいかも。
そういうのもあって、寮でもなんかいきなり泣き出したり、まぁなんか精神良くない時もありましたね。
夏休みで帰ってくるたびに「もう学校やめたい」って泣いてた記憶もあります。
なんかじっちゃんには「もうちょっと頑張ってみなさい」みたいな心に残ってない誤魔化され方されましたけど、まぁ正しかったかも。
あのタイミングで辞めてたら、公立中学に転校したって、引きこもる確率が高すぎましたね。
だったら寮生活で強制的に先輩と遊んでた方がええですわな。
母の死
多分、高1になる直前の年末年始で、母が死にました。
寝たきりだったし、「お見舞いヤダ!!!」って泣いて拒否したからしばらく会ってませんでしたし、実感も薄かったですね。
ちなみに思いまい嫌だの時は珍しくばっちゃんも怒り気味で口論になりましたけど、まぁ、うん。行けなかったですね。
今だったら……うん。行けたと思う。
視力が悪い事にも気付けるし、眼鏡をかけてあげたりテレビ見せてあげたりラジオつけてあげれば良かったと。
俺が行くたびに手をものすごい強く握って離してくれない。
俺の顔を見ながら鬼気迫る表情で何かを訴えようとしてくる。
そんな母親の手を力いっぱい剥がして、逃げるように帰ってました。
生き地獄だったでしょう。何も出来ず、何もしない日々。
死ぬほど後悔ですよ。
後からN叔父さんに相談した時は「きっと何も分かってなかっただろ。脳だし」みたいに慰めてもらいましたが、うーん……。どうなんですかね。
この経験もあるので、無条件な「自殺はダメだ!」も否定的ですね。
死ぬよりキツい状況は絶対にあるでしょ……っていう。
まぁ休むなり、金があったら大丈夫なら踏み止まれと思いますが。
そして母(ママ)が死んだタイミングで、祖父が養子縁組にしてくれました。
高校からは名字も変えよう。T→Nになりました。
まぁ中高一貫校だから今まで通りの顔ぶれだったので、ちょっと気恥ずかしかったりしたんですけどね。
ラグビー部
人数少ないから来て、っていう勧誘。
あと寮の先輩2人が居たっていうのから入りました。
頑張りました。
夏合宿の『1000本スクラム』とかいうので、110kgの先輩と130kgの先輩を相手にスクラム組みまくって、腰が潰れました。
これ誇張表現とかじゃなく、文字通り椎間板ヘルニアが叩き潰され、神経圧迫して痛むようになりました。
効率的に腰を潰した訳ですね。
これの後遺症で大学時代までずっと、1時間くらい歩いてたら立ってられないくらいの腰痛が襲ってくるようになりました。
高校時代
それと並行して寮生活から学生アパート寮に移ったのかな。個室。
部活をサボるために不登校になって、完全に引きこもりですね。
このあたりで医学部も諦めたし、関係ない科目やるの普通に非効率だし、進学塾に行けば学校に行かなくていいや……と高2の夏で退学。
うーん、夜中に漫画喫茶行ったりコンビニ行ったり、健康的な不良でしたね。
大悪司とかやりまくって現実逃避もしてたかな。
なんとなく受験勉強はしてましたけど、進学塾もサボり気味でしたね。あーあ。
デカくてデブで老け顔だから『現役生のための予備校』って看板の塾に行くのも気が引けてね。
根暗だし。Max95kgとかだったし。
学校の友達と会うのも、俺なんかと知り合いだと思われない方が良いだろうな……とか思ってました。
大叔父さん(祖父の弟)が「良かったら薬局を継いでよ」なんて軽口を言ってくれたので、医学部は無理でも薬学部ならいけるかもと勉強。
数学はまぁまぁ好きだし、化学も嫌いじゃなかったけど、まぁ全然やってなかったですかね。
『死にたくないから生きてるだけです』って塾長先生に言って困らせちゃったのは覚えてますね。
今ではまぁ、「生きてるだけで十分だよ」って感じかな。
大学受験
高1までのカリキュラムでなぜか高校単位を全部取ってたらしい俺。
なので高卒認定で好きなの1科目受けるだけで大学受験資格が得られましたね。
センター試験は数学IAと化学だけ。
それだけで受験出来る所は5ヶ所くらい出したと思うんですけど、不況だから安定職への人気が高まり、例年だったら合格ラインだったのに不合格でした。
これも記憶違いで、ただ普通に化学の点数が足りなかった可能性も高いかな。
そこから一応薬学部受けたけど、試験中に寝てたりもしたので受かる訳もなし。
センター利用で出願する時になんか書かなきゃいけなかった『他学部の第2希望』みたいなのが引っかかり、その大学にとりあえず進学。
じっちゃんは他国の日本語学校とかアリだよとか言ってくれたけど、まぁどうでもいいなら大学かなと入学。
ちなみにババは「落ちたなら働きなさいよ」って言ってたはず。
ごもっともだけど、そのルートは俺マジで引きこもりですね。
なんていうか、未来への希望も何もなかったから調べてなかったけど「最低でも早慶」なんて言ってる学校の同期を完全無視して、私学文系で色々調べれば良かったかなと。
言っちゃ何だけど、高1の段階で受かるような大学に入っちゃいましたよ。
そこから一応は勉強してたんだから、F欄じゃなくでCランクくらい?日東駒専くらいを目指しても良かったかも。
ただまぁ、後の祭りですね。
大学時代
入った瞬間、恐ろしい所だと思いましたよ。
髪を染めてる男女ばっかり。俺オタクだから殺されるんじゃないかと。
入学生オリエンテーション、みんな18歳のはずなのに、喫煙所が満員。どういうこと?
ホントに世界の果てに来た気分でしたが、「やばーい遅れた~!」っていうギャル丸出しの声を聞いて思わず笑って、あっなんか大丈夫かもと思いました。
うーん、まぁ色々やりましたけど、だいたいゲームしてましたね。
2年の時はトライ個別指導塾で教えるのやって、楽しかったけど事前予習の時間を考えると金にならなすぎると思ったり。
高校受験数学を本気でやりまくって、しっかり教えて、合格してもらえたのは思い出ですね。
アホな子に算数現国を好きになってもらおうと頑張ったのも良い経験でした。
このままの人生はアカンと思い、3年から情報システムコース?の方の授業にゴリゴリ参加しました。
周り誰も知らないし、1人ぼっちでしたけど、適性があったのかC言語のコーディング問題解くのも2,3番目でしたね。
俺が強いんじゃない、学校のレベルが低すぎるんじゃ……。
開発者の卵くらいにはなれましたね。
基本情報技術者試験もギリギリ1発合格でしたし。
就活
リクナビマイナビからも応募しましたけど、プログラミングやったことのない文系学生と一緒に何百社も受けるのバカだと思ってすぐ辞めました。
顔も良くないのに面接のプロになるの無駄でしょ、営業でもないし。
だったら何か開発してた方が良いに決まってんだろこれ。無駄だ無駄、と。
んで、プログラマー向け就活サイトのpaiza経由で応募して、10社くらい面接して受かったのかな。
そのあとゲームやりまくってたけど、やっぱ客先常駐ヤダな~って思って就活再開したり。
それで、
・自社開発
・ベテランの先輩が居る
・チャリで通える
っていうのがパーフェクトに揃った会社に入れてもらいました。
インターン時代
就職先が決まっても、そこが潰れたら無職じゃねぇか!!!と恐怖を感じ、インターンでお邪魔させてもらいました。
HTML&CSS&JavaScriptで簡単なWebアプリをドットインストールに言われるがまま作って、それちょっとカスタマイズしたくらい。
だから『Webサービス』ではない気がしたんですよね。データやり取り無いし。
なので開発について知りたいと、無給で週2回?お邪魔させてもらいました。
タダで勉強させてもらってるだけですし、会社からしても電気代くらいしか食わず社員教育出来ていいですからね。
今でも良い事したと思ってますよ。
CakePHPをめちゃくちゃ使えるようになりました。
あと外部サーバの操作とかも。
先輩上司もVim派だったの、今思うと神。
新卒時代
まぁ……ブラック会社だったのかな。
そもそも営業特化の会社で、色々と手を出しすぎの社長が『自社サービスを持たなければいけない』ってことで採算無視でエンジニア増やしたみたいでした。
俺も含めて新卒3,4人、Webデザイナーも1人入れてましたけど、明らかに過剰。
だからこそ期限もほぼ無く開発っぽいことさせてもらえて、勉強になったんですけどね。
ただ、営業の方はテレアポで深夜まで残されてたり、怒鳴られまくってたり。
当然残業代は出ないし。
半年で1年先輩はほとんど消えちゃうし。
うーん……。
俺が何より嫌だったのは、毎朝の朝礼です。
発表することテキスト化してたら少し楽しめましたが、あまりにも人生の無駄だったかなと。
毎日30分、訳も分からず怒られて、1日のやる気を失う。
そりゃ赤字会社にもなるでしょうよと。
もう1つ、新卒だからって出し物やらされたんですよね。
これがもうホントに嫌で嫌で。
1年に1回……せめて2回だったら我慢もする。社会の洗礼だと受け入れる、はず。
けど新年会、社長誕生日会、副社長誕生日会、忘年会、あと会社設立日もかな?
いやクソ、死ね。絶対に嫌だ。
新卒も離脱しまくってる状況で、来年はやらなくていいってなる訳もなし。
それが嫌でさっさと1年目の年末に辞めますって決めちゃいましたね。
朝礼、出し物の2つが無かったら……あと1年くらいは居たかな。
けどやっぱ『金にならない開発をしてる』っていうのが、なんか魂が腐ると言うか、甘えすぎて人間としてダメだと思って辞めたのはあります。
大学時代、N叔父さんに言われて一生の指針にしてるものがあります。
『8割、いや9割の人はイヤイヤ仕事してるからな』っていう。
つまり、だからすぐ辞めるなよ?っていう忠告だったと思うんですが、これ知ってたから「仕事続けてる俺偉い~」みたいなテンションで強く要られましたね。
変に仕事に憧れとか持ってると心折れちゃうでしょうけど、俺はそもそも何も期待してなかったですからね。
それでいて、俺はプログラマーで、自分の興味ある開発だったら恐らく楽しめると思ったんですよ。
人類の1,2割しか居ないっぽい、仕事を楽しめる人になれそうだよ!?っていう。
あと、このあたりでじっちゃんがどんどんボケてきたのも気になりましたね。
恩返しまだしてねーぞー!!!という。
無職時代
大学、会社も東京だったので、鎌倉の実家にはよく帰ってきてたんですよ。
けど一緒に暮らすとなると小学生以来ですし、私物も多いからどうしようかな~とか悩みながら、引越し前に実家生活を始めました。
なんか無駄にじっちゃんと口論になりまくったんですよね。
今思えば唯一の生き甲斐だったのかもしれませんが、冷蔵庫がパンパンなのに、食えるはずのない量の食料買ってきたり。
「食える訳ねーだろ!」とか言っちゃいましたし、それで嫌そうにしてたり。
じっちゃんはリハビリのおかげか、一応は動けてる。
買い出しも大叔父さんの車で行けてる。料理もしてる。
あ、これ俺いらないな……と。
なので、予定をさっさと前倒しにして、新しい会社に行くことにしました。
ちなみにこの時期にランス10をやりました。
ホントに、心底から会社辞めて全力でやれて良かった……と思えたゲームでした。
大阪時代
うーーーん……、これに関してはサービス名が特定出来ちゃいそうなので、誤魔化します。
好きなサービスがあって、なんかHPもとりあえず作った感があったので「少人数っぽいな」と思い、「採用まだしてますか?」のメールを送りました。
ちなみに新卒で会社から送ってましたね……w
案の定、そうやって募集してくる人はレアだったらしく、メールでやりとり、東京で1回会ってみよう、大阪に1回来てみて、のトントン拍子でしたね。
使ってるフレームワークもCakePHP、神~~~!!
……いや今はRailsマンですけども。
そんなこんなで、退職してから3ヶ月くらいですぐ就職しました。
大阪のちょっとしたマンションに住み始めました。
これ雇用状況もかなり特殊で、受託業務?の形にして『1ヶ月のうち1週間休ませて下さい』を聞き入れてもらったんですよ。
ジジババの様子もちゃんと見に行きたかったからですね。
そしたらオーケーもらって、時給制で1500円。いやん……良すぎる。
いずれは完全リモートで実家からも出来そうだし、という事で。
実際に働いてみて、何十万人が利用するがゆえのデータ量の対策とか、ホントに超少人数開発だから先輩上司に聞きながらやれたりとか、いい環境でしたね……。
会社っぽい会社ではない古いビルなんですけど、それもまた無駄経費使わない感じがして好きでした。
ただまぁ、色々あって……。
1番は大阪に合わなかったのかもです。誰とも合わなかったし、テレビも見てないし。
何箇所か少し出かけただけ、みたいな。
月に1週間だと意味も無いなぁこれ、とかいう思いもあり、せっかちな性格も災いして、辞めちゃいました。
横浜に引っ越して、神奈川に帰ってきちゃいました。
介護スタート
仕事してるフリの時期を入れつつ、じーちゃんがヤバいかも報を受けて、慌てて実家に戻りました。
弱り果てて、水もほぼ飲めず、寝たきり。
「あぁこれはもう死んじゃうんだ……」って実感しました。
トイレ失敗した処理をしながら、全然恩返し出来なかったなぁ、と。
覚悟して、じっちゃんに聞いたんですよ。
「最後に言い残したこと、言っておくことある?」って。
そしたら「……ありがとね」って言われて、いやいやいや、「こっちのセリフだよ!ww」って泣きそうになりながら爆笑しちゃいました。
今思えばただズボン交換した事を指してたのかもしれませんが、俺の方が何万倍もお世話になったよと。
アナタのおかげで自殺もせず、特別困りもせず、ちょっと無駄遣い出来る幸せな人生を送れてるんだよって。
本当に、ただただ感謝してるんだよと。
幸いにも、このタイミングでは救急搬送されて、点滴を打ったらすぐ治りました。
肺炎だったです。
コロナ禍で面会も出来ないと聞き、入院する最後の私物を渡すときが最後かも?という覚悟もしてました。
んで、そのタイミングでちょっと魔が差して?、また聞きたくなったんですよね。
「最後かもしれないから何か言い残したことある?w」って半笑いでまた聞きました。
そしたら、目をつぶって寝たきりでしたけど、ちょっとだけ元気になってたのか「……無いよ」とか言ってきました。
オイオイwとか思いながら「無いんかい!w」って言おうとしたら「……ばっちゃんのこと、よろしくね」って。
うん、そりゃ任せてくれと。「うん、分かった」とか返したかな?
ボケの進行具合、身体の劣化っぷり。この辺がガクッと来てたんですね。
コロナ禍なので接触避けようと会ってなかったのもあり、いきなり……でした。
メシくらい、トイレくらい、水を飲むくらい出来るだろ……って思ってましたが、出来ませんでした。
この「それくらい出来るでしょ!?」って思っちゃうのが厄介なんですよ。
今までの人生で、80歳を超えても凛々しく、運転したり、庭仕事とかPC操作してたのを知ってるから。
あと、頭が良い人だから、認知症が進んでもしっかり会話出来てたんですよ。
話すのが好きだから、そういう面から『助けが必要な人』だと判断出来なかった、それで遅れたのもあります。
良くも悪くも『他人に迷惑をかけずに生きてきた』を誇りに思って、遺書にも書くような人だったので……「助けて欲しい」って言ってくれなかったんですよね。
「俺のために運転してくれ」
「俺のためにメシの準備してくれ」
「風呂大変だから介助して」
↑
こういう事を、まったく言ってくれなかったんですよ。
だからちょっと大変でしたね……。
本人は『出来る』と思ってる。『出来てる』と思ってる。
けど、実際には出来てない。
このギャップですよ。
介護時代、前半
ジジが肺炎だけなのは割とすんなり治って、実家に帰ってきましたが……
この直後、人生初の介護が本当にキツかったですね。
2階に上がるのは大変だからってベッドを1階に動かして、意外とすんなり使ってくれるようになったのは助かりましたが……
メシを食ってくれない。
水を飲んでくれない。
リハビリは行けそうにない。
トイレに行くたびにズボンをビショビショに汚してしまう。
歩くのがフラつくから、目が離せない。
目を離してる時、転んでしまうんじゃないか?
今もう何か苦しんでるんじゃないか?
そういう不安が次から次へと押し寄せて、声をかけるけど、本人は『自分は1人で大丈夫』だと思ってるから俺のことをちょっとウザそうにする。
それ見てムカつく、「トイレ失敗してんじゃんかよ!」とか言っちゃう。
ジジにそう言うのもつらいし、言っちゃった後悔もあるし、言わなきゃどうしようもない、言っても変わらないというのもまたつらい。
ただまぁ、幸いにも介護を色々頼むお金はありました。
ケアマネさんを始めとして、毎日2回のパンツ交換、訪問介護による風呂介助、訪問リハビリ。
メシも高カロリーのドリンクを用意したり。
ある意味、『恩返しをするチャンス』だったんですよ。
そのためにも頑張りましたが、やっぱキツかったですね……。
「これいつまで続くの?」っていう虚無感もあったり、ひたすら誰にも感謝されず(本人からもちょっとウザいやつくらいに思われてる)人生が消費されていく感。
子育てと違って、終わりが分からない。先が見えない疲弊。
数ヶ月でこう思うくらいキツいものでした。
本当に、ありとあらゆることにイライラしてムカついて、怒ってしまいました。
人間こうなっちゃうんだな……っていう。
良くも悪くも「無理!」って言えるタイプだったので、叔父叔母さんに助けてもらったり、ホントは良くないんですけどヘルパーさんも組み合わせて、週2日くらい休ませてもらうことにしました。
2ヶ月?3ヶ月?で、ある意味でギブアップでしたね。
思い出した。1番怖かったのは『手を出しそうなのが怖い』ですね。
あれだけ世話になって、あれだけ感謝してた相手だけど、その相手に暴力を振るいかねない、と。
あっさりしてるけど食べやすい、消化も良いだろうって蕎麦を作って出したら「冷たい!」って文句言われて、マジで殺すぞこの野郎……って割と本気でムカついちゃった時に思いました。
介護してる人、「死んでくれないかな」って絶対に思っちゃうと思います。
もし思わない人が居たら、その人は多分介護してませんね。
思って当然、だと思います。
介護時代、後半
週1日は完全フリーにしてもらって、流石に大丈夫になりました。
最初は外に出て駅を歩くだけでもサイコーに解放感を感じてました。
そのペースでやってて、1ヶ月くらい?で……ジジが夜中のトイレ帰りに転んで、お尻を骨折して入院となりました。
そのあと介護施設と病院を転々としてたのかな。
コロナでお見舞い行けなかったので分からんのですが……。
施設探しもすごい叔母さんが頑張って探してくれたりしたんですが、ごはん全然食べないのは変わらず、なんか調子悪くなって意識朦朧としたり。
正直、嫌でもちょっと慣れてきた感じはあったんですよ。
ずーーーーっと、少しずつ死んでいくような。
『死んじゃうかもしれない』っていう恐怖と悲しさを、常に、24時間ほぼずっと感じ続けてたんですよ。
「じっちゃんのおかげで良い人生になったよ。本当に感謝してます」っていうのは何度か3,4回は言えたと思うんですよ。
最後、病院でギリギリ息がある時も言えました。
そして、死去しました。89歳。
その……やっぱ、悲しかったですよ。
葬儀前にアルバム整理して、そこでやっと保育園児の頃の、幼少期の思い出をちょっと思い出せた。
あれだけお世話になった人に、俺は何をしてたんだ?と。
中学時代、高校時代、なんとなく1人で外食出来るのが楽しくて、帰ってくる頻度も下がってたし。
大学時代、なんとなく面倒で帰ってなかったし。
社会人時代、なんとなく口論になったとしても、まだ元気に見えたとしても、サポート出来たんじゃないのかな?と。
ジジが「いらない」って言ってたのは事実だけど、それでも自動車を持って色んな所に連れて行ってあげたら良かったのかなと。
2020年になって、コロナにビビりすぎてないで、ゴルフ旅行に行けば良かったと。
そもそもリハビリを勝手に辞めちゃった段階で、毎週3回くらい一緒にゴルフ練習場に連れて行ってあげたら良かったと。
アイパッドで麻雀やれてたんだから、横でサポートしながらまたやってもらおうとすればよかったと。
夜中に何かあったら、って渡した呼び出しスイッチが電池切れてたのに気付いてたら、ちゃんと呼んでてくれてたのかもと。
嘘でもいいから、買ってきてくれたメシを沢山食べてあげればよかったと。
演技でもいいから、喜んであげれば良かった。
どうせ太って痩せられなかったんだから、気にせず食えば良かった。
庭仕事だって、指示してもらって俺が代わりにやってあげればよかった。
もう、ありとあらゆる後悔があるんですよ。
まだちょっと元気だった時に、遺族それぞれに向けて手紙とか書いてくれてたら良かったのに、とかも。
たまーに「高い肉買ってきたぞ!」とか言いながら、100g200円くらいだから、まぁ別に高すぎないんですよね。
そういう質素な暮らしをして、たまにする旅行もかんぽの宿、海外旅行は若い時は行ってたけど全然いかない。
余計なものもほとんど買わない。
物を大事にしすぎるから、ガラクタ多めの家になるくらい。
そうして、子供達、孫達に色んな形で遺産を残してくれた。
葬式の最中、めちゃうるさい坊主のお経を聞きながら、こういう事を考えてました。
「最後に何か言ってくれるかな?」って考えたら、恐らく「別に。何も無いよ」って言うだろうな、と思って、ちょっと笑いました。
そしたら泣いちゃいましたね。あぁもう、居ないんだな……って。
さらに、なんでここに居る人達、めちゃくちゃお世話になってんのに誰も泣いてねぇんだよ?とかいう怒りも混じって、ボロ泣きしました。
ババ介護時代
今です。
別になんも困らんですね。
まだ普通に歩けるし、
メシも言えば立って歩いて来て食ってくれる。
週2リハビリも行ってくれるし、
週2デイサービス行ってくれるし。
紙パンツ交換も、渡しながら「お願いします」って言えばやってくれるし。
リハビリがてら、洗濯物干すのもやってくれるし。
90歳になったのに、これは調子良いと思いますよ。
日中ずっとテレビ点いてるのに見ないで寝てるのだけは不安ですけど、冗談抜きに1日20時間くらい寝てるっぽいんですけど、まぁいいかなと。
週4で外に出てくれてるから、うん、この調子だったら意外と大丈夫そう。
「あと何年生きるの?」って聞いてみたら「3年」って言ってました。
恐らく、3年前も同じこと言ってました。ええことや。
もしかしたらあと10年いけるかも。
そう、しばらく経ってからババにじっちゃんへの後悔を話したら「もう歳だもん」ってハッキリ言ってくれたのには救われました。
確かに89歳、そりゃ死ぬ歳ですよ……。うん……。
遺産騒動
ある意味、やっと本題なのか。
祖父母の子供は、上から順に、
・俺の母親
・N叔父さん
・H叔父さん
でした。
けれど俺の母親が死んで、俺を養子縁組してくれました。
・N叔父さん
・H叔父さん
・俺
っていう3人の形ですね。
ちょっと厄介なのは、ジジが「自分が死んだ後も大丈夫なように」って、寝たきりの俺の母に対して生命保険とかを色々かけてたみたいなんですよ。
寝たきりの植物人間状態だけど、ずっと大丈夫なように、と。
それは俺が小5とかの時からなので、母は……49歳とか?
恐らく、寝たきりではあったけど、年齢が若いからちょっと保険料も安かったと思うんですよ。
それでもずっと大丈夫なように、ってなると結構な額でしょうけど。
それで俺が高1の時、5年位で死んじゃいました。
母は、55歳?とか。
だから死亡時の保険金が、恐らくかけた額より多くなって返ってきた……んだと思います。
その時の受取人は、自然と俺。
「相続税かなり払った」というのを又聞きで知りましたが、それなりの額だったのかな?と。
当然だと思うんですけど、中高生だったので何も知らなかったんですよね。
金銭感覚のためにもありがたい配慮だったと思います。
ジジから言われてたのは「将来ビジネス立ち上げたい時に使える金くらいはある」とか「老後の心配はしなくていいはず」とか。
良く分からない保険のサインを書いたこともあったので、そういう保険に入ってるんだと思ってたんですよ。
あと僕の名義で2000万円くらいあんのかな?けど使わせてもらえないならなぁ……みたいな。
そして別に金額を確かめる事も無く、中学時代、高校時代、大学時代が終わりつつありました。
8年くらいか。
大学時代だったと思うんですけど、20歳とかその辺でやっと「これだけあるからお前が銘柄とか決めていいよ」って許可が出たんですよ。
そこで初めて知った、自分名義の投資信託とかが、1億円近くありました。
「マジで?」でしたよ。
アホみたいな課金をしちゃったりもしますが、流石に散財するほど金銭感覚はバカじゃなかったので、割と怖かったですね。
それで3000万円くらいを、月々の支払いもあるやつにして、月10万円ちょい?をGET出来る投資信託にしてもらったはずです。
「わーい、生活費に余裕出来た~」って感じにした覚えがあります。
その後、横浜銀行のアプリで操作出来るようになったりして、ダウ平均INDEX銘柄にほとんど変えたり、一部は安牌のアメリカ国債系にしました。
2020年からのコロナ禍で、俺は大不況になるだろうから現金化しておこうかな?とか思ってたんですが、株式市場は成長しました。
それで、資産合計は1億円ちょいになってました。
そういう状態の時に、ジジが死んでしまい、遺産相続となります。
分配は遺書に書かれていました。
ジジの遺産は、
・現金(数百万円)
・実家
・不動産アパート(全14部屋?)
ただし、死亡時保険の形で合計1億円も。
受取人は指定してあり、
・ババ:5000万円
・Nおじ:2500万円
・Hおじ:2500万円
以上です。
実家の名義は、俺50%とババ50%
アパート名義は、俺50%とN叔父さん50%となってました。
そう、H叔父さんに何もない形なんですよね。保険金は入ってるんですが。
遺書には「動産についてはN,Hが折半する」「M(俺)には母親の分を若干であるが手渡している」って書いてあったんですよ。
けど納得いかないみたいで……。
話し合いの時、「お前いくらもらってんの?」って聞かれて、バレて怒られたら嫌だと素直に答えちゃったんですよ。
「1億円くらいです」って。
それでなぜかブチギレ。
「片手よこせ」
「嫌なら兄貴に全部渡して、それを分配してもらえ」
いや、え~~~?
実家だってババと住んで介護してるの俺だし、アパートだって俺は月11万もらってるだけですよ。
確かに売却したら、とか考えたら多いのかも知れないですけど、売らないよ……って。
半年以上が経って、遅めなんですけど相続サインするってタイミングで、また言われました。「片手よこせ」
本気っぽいんすよね……。
ガチで気持ち悪くて、N叔父さんに相談したら「流石に5000はないだろw」とか。
今、調整中です。(2022-03-24)
反省点を上げるとしたら、「5000万円くらいです」って言っておけば良かったですよ。
そもそも、最初は多分これくらいだったんですよ。
けど投資しておけば10年近くで2倍はなる訳で……。
なんでその半分を渡すの?
良い人と結婚して、子供3人の幸せな家庭を築いて、ビジネスもめちゃくちゃ上手くいってる金持ちなのに、なんで俺から金をぶん取ろうとするの……?
気持ち悪すぎる。
怖いんですよマジで。意味がまったく分からん。
俺を殺したら財産分与先が自分、って知ったら、俺殺されるんじゃないかと。
↑
これが言いたかったこと、ここまで金額を出してでも書き残しておきたかった事です。
俺が変死したら、H叔父さんだと思って下さい。
H.N. 川崎のM歯科の理事長です。
怖いんですよ。本当に。
金に困ってんのかな……?
普通に考えて意味不明すぎる思考なんですよ。怖くて仕方ない。
ババが死んだら、そのジジからの保険金5000万も相続税で支払うくらいで全然減らないだろうし、他にも3000万円くらいの投資信託は確かあるんですよ。
それを2人で折半して、俺何も貰わないんですよ?と。
俺もそんなもん狙ってないし、「ババからの遺産は相続しません」って念書を書いて、それでもなお実家とアパートの相続についてサイン出来ない、と。
いやいやいや……。
50過ぎても末っ子だとこうなるんですかね?
理解出来なくて怖いんですよ。
怖い。本当に怖い。
(続く、かも)
電話しました。
俺が既にもらってる1億円の資産ですけど、これが相続対象として分配されるのが当然だろ、っていう発想っぽいですね。
この分に関して「これはH叔父さん触る権利無いと思うんですけど……」って言って、それを「俺に関わる権利は無いって言うんだよなぁ!?」ってキレてました。
まぁ、その……いやまぁ、はい……。
これもう相続のハンコもらえなさそうっすね。どうなるんだろう……。
なんかただ相続税が20%増えちゃうだけだと思うんですけどね。
相続税を払ったら有利になる、みたいな話あんのかな??
最悪の最悪だと、アパートの権利も無くなって、家の権利も無くなるだけ、ではあるんですよね。
唯一の実家で、一生住み続けたい場所なんですけど……H叔父さんは売り払って金にしちゃうのかな。分からん。
う~~~~ん……。
そもそも片手って500万円なのか5000万円なのか聞けなかったという。
まぁ5000のつもりだったのかな。
いやまぁ、5000万円渡すのはどう考えても意味が分からんし。当然、払いたくもない。
N叔父さんが困ってて1000万円くれとか言われたら全然出すけどね。
なんか結論書ける日が来るといいな。
(2022-04)
追記です。
さすがに5000じゃなく500だろみたいな話になってた所で、電話したらなんか色々キレられましたね。
「お前なんか弟じゃない」
「お前が野垂れ死にそうでも助けてやらない」
「俺を叔父とも思うな」
「お前に財産がいくものにサインなんて出来る訳無い」
なんでこんなキレてんの?
「お前かーちゃん死んで良かったな」と「お前の父ちゃん韓国人だぞ」とか軽々しく言われた恨みで、俺がアンタを恨むなら分かるけど……っていう。
まぁ、別に兄弟としてなんて見てる訳も無いし、兄弟でもないし。ジジが養子縁組してくれたのも、相続時の税率下げるためだけですよ多分。
縁切れるのが早くなったと思えば助かるかな。
N叔父さんに仲介してもらって、結論として「すべてN叔父さんが引き継ぐ。その後の分配はそっちで自由にやってくれていい」っていうものらしいです。
謎ですけど……。それ無駄に贈与税とかかかりそうで面倒なだけですけど、まぁ俺の名義になるのがとにかく嫌なだけみたいだったので、それで話が進んでます。
とにかく傲慢、自己評価が高すぎで、自分勝手。
本当に早く死んで欲しい。
けどまぁジジが死んだ今もう話す理由も無いし、ババが死んだら本当に2度と会わなくて済むくらいの関係になるでしょう。
アルバム持ち帰るから用意しとけって、なんでそれ言ってから半年以上も取りに来ないんだよ……。キモイわぁ。
なんにせよ、お前が嫌いとハッキリ表明してくれたのは助かりますね。
縁を切れる。ありがたい。
(2022-09)
これ書いたの忘れてましたけど、かなりちゃんと記録してましたね俺。偉い。
8月末、FBでも言いましたけど、ババが転んで顔を打って内出血して、それの見舞いでかH叔父さん……(Hって呼び捨てすればいいのか?それもキモいな。例の人でいいか)が来たんですよね。
その直前に『アルバム郵送してくれ』って兄に頼んでたみたいですけど。なんで自分で取りに来ないんだよ……とか思いつつ。そのすぐ後に来るからまた意味が分からん。
それで来て、ドア開けるなりキレ出しました。
「お前、俺に電話でなんて言ったか覚えてるか?」
「『お前は関係ない』って言ったよなぁ!?」
「マジで刺すぞお前」
ってなんか結構大きい折りたたみナイフ見せながら怒られました。
はぁ……?
勝手に人の財産を自分のものだと言い出して、キレて暴力で脅して奪い取ろうとするの。もうこれ完全にプーチンロシアじゃん。
意味不明すぎますよ。
コロナ感染して、日頃の酒浸りも合わさって脳細胞ボロボロなってんちゃうの?マジで。
本当の本当に気持ち悪すぎるよ。マジの懇願として早く死んでもらいたい。
意味あるのか分からんけど、俺が死んだ時の遺産相続も書き換えようと心から思えました。
今俺が殺されて、叔父2人に半分ずついくようになってますからね。完全に『殺し得』ですよ。
なんでジジの遺書に『家族仲良く』って書いてあるのにこうなってんだよ。
なんでジジババ死亡時それぞれ俺に動産は無し、家とアパート権利半分だけでそこまでキレるんだよ。
具体的に金額言っちゃいますけど、ババの遺産も5000万円くらいはあるはずですよ。それ半分またもらえるんだから良いだろ。
俺は『1億もらった』んじゃなくて『母経由で相続した資産が2倍くらいに増えて1億円を超えた』ですよ。
なんでそれをお前に分配しなきゃいけないんだよ。頭イカれ過ぎですよ。
なんていうか、そもそもジジ死亡時の相続で、クソほど遅かった手続きのせいで相続税が延滞しそう、20%増えちゃいそうっていうのを聞いて、俺何も貰わないっていうのでもすぐハンコ押しましたけど、押すべきじゃなかったのかもしれない。
N叔父さんには悪いけど、延期しようが知ったことではない精神で、ちゃんと遺言通り実家の権利半分もらうべきだったかもしれない。
弁護士を立てたら、99%俺が勝つだろ。
それを譲歩して、ババ死亡時に何も貰いませんよって宣誓書を書いて、それなのに住んでる実家の権利をもらえず、その上さらに金よこせ殺すぞと脅され……。
マジでなんなんだよこれ。ふざけんなよ……。
「俺、水道水は飲まねぇ」とか偉そうに自慢してるクソボケのアホに、なんで金を渡す必要があるんだよ?
じっちゃんがめちゃくちゃ節約して、ただただ子供達、孫達が幸せになれるようにって残してくれた遺産を、なんでお前みたいなカスが遊ぶための金として渡さなきゃいけないんだよ。
絶対に赤十字とかに使ってもらった方が良いだろ。
考えたくもない推測ですけど、あの人は「おばあちゃんの介護が終わったら殺そう」くらいに思ってても不思議じゃないんですよ。
殺し屋、1000万円くらいで頼めるなら、先にこっちから頼んで殺してもらいたい、くらいには危機感ありますね。
プーチンと同じくらいキチガイだと思ったら、それくらい考えなきゃいかんでしょ。
俺からしたら、もし「コロナの後遺症でブレインフォグで苦労してる」とか言い訳された所で、殺されたら何も言えない訳ですからね。どうでもいい話。
いや実際どうなのか知りませんけど。男の更年期とかなのかもしれないし、ただ単純に狂ってないのに狂ってるのかもしれませんけど。
この話と比べたら、1食10000円もしないレストランに付き合ってくれる、超美人の子がどれだけ良心的かと……。
デート誘ったら「そのつもりないです」とか返してきて、それは結構マジでキツいけど、それでも会えたら嬉しかったですからね。
月1くらいで会えたら、モチベ続いて痩せられる気もする。そう考えたらめちゃ安い出費やんけ。RIZAPより安い。
ランチくらいだったらどれだけ高くても2人で2万円もいかないし、あと1000回以上行けますからね。……って100年やないかい!w(ノリツッコミ)
そんな訳で、現実で『頼む、死んでくれ……!』と心底思う相手が出来てしまったという話でした。
他人事なら笑えるし面白いんですけど、現在進行系すぎるのでマジで勘弁してくれという感じです。